もるブログ(ひたすら人狼論)

人狼についてあーだこーだ書きます(主にTLPTルールとアルティメットルール中心)

人狼ゲームにおける行き過ぎた「生への執着」ついて

お久しぶりですもるです

最近サボってました。一年ぶりくらい?

なんか変な広告がブログに出るようになったので、結構空いてますね。これは記事を投稿したら、消えるみたいです。

というわけで、広告を消すために記事を投稿しましょう!今日は人狼ゲームにおける『行き過ぎた生への執着について』

 


生きるということ

 
最近はアルティメットが主流になっているんですが、「魅せる人狼」という単語が出てきたのはTLPTが最初だと思うんですよね。

そしてそのTLPTから出てきた文化のうち一つが「生への執着」だと思ってます。

もちろんこれはTLPTの設定からは当たり前の事で、村に忍び込んだ人狼が村人を殺していく命がけの闘いを舞台としているので、命に重みが出てきます。


ただこの命の重みを通常の人狼ゲームも同じように扱っていいのかどうか。この判断ができない人が散見されるような気がします。TLPTにおける『生への執着』を曲解しているプレイヤーです。


先に言いたいのは、『ゲームにおける命の重みなどない!霊ロラはすべきだ!』とかいうことではないです。私は一人一人のプレイヤーの尊厳は最大限に尊重されるべきだと思ってるので。

 


私が言いたいのは『「生きること」を免罪符として、なんでもやっていいと勘違いしてるプレイヤーって時々いるよね』って話です。

 


当たり前ですけど、誰だって現実で死ぬのは嫌です。殺されたくありません。目の前に包丁を持った強盗が現れたら、必死に抵抗するはずです。そしてTLPTはそれを人狼ゲームというツールを用いて非現実的な現実を表現してるから面白いのです。

それを普通の人狼ゲームに持ってくるのは話が違います。だって、あくまで「ゲーム」なのですから。黒だしされて処刑されそうだからキレたり、相手の話も聞かないで延々と喋り続けたり。

 
その背景にあるのは、

『だって、殺されるかもしれないんだよ?』

 
大半のプレイヤーはわかってると思いますが、『別に殺されません』。1時間後には生き返って次のゲームをやっています。

『ここで頑張らないと殺される』という必死の抵抗が大事だと言う人もいますが、度を超えるのはいかがでしょう。多少モラルを欠如しても「だって殺されるとこだったんだよ」で許されると思っているケース。時々見かけます。

 


別に生に執着することがいけないという訳じゃないです。勝つためには生に執着すべきです。要は私が言いたいのは『天秤にかけているのは命ではなくて、ただのゲームの勝敗である』。それを大前提として、生に執着してほしいということ。この前提を忘れなければ、モラルは守られます。

だって30歳過ぎた良い大人がただのゲームで「殺されるかもしれない!」ってキレている図。すごくすごく滑稽じゃないですか。

 
そういうのを魅せる人狼と思ってる人も時々います。TLPTを曲解してる感じ。


個人的に『魅せる人狼』ってまず誰に魅せるのかって考えたとき、最初に魅せるべきは『今、同村してるプレイヤーたち』だと思うんですよね。

そのゲームで一番考えているのは、一緒にそのゲームに参加してるプレイヤーですし、同村してるプレイヤーが満足できるゲームなら、見てる人がいたとしても楽しめるだろうし。

 
人狼ゲーム』を神格化しすぎると、変な方向に突っ走ってしまいます。あくまで「ただのゲーム」ですよ?めちゃくちゃ面白いゲームであることは間違いないですけどね。

 
もる